芥川・直木賞に希望を覚えた

芥川賞受賞会見・田中慎弥さん - NHK「かぶん」ブログ

久しぶりに文学賞に興味を持った。中高校生のころ、純文学に憧れて芥川・直木賞の受賞歴がある作家を探し、阿部公房、堀田善衛遠藤周作司馬遼太郎中上健次などを読むことができた。
なんて面白いのだろうと過去から現在へと進んでいくうちに、90年代以降からちょっと普通だな、と思い始め2000年代に入るともうこれは並み以下だろう、という作品まで出てきた。学校の図書館で長嶋有桐野夏生重松清を読んでこれはもう駄目だ、何の参考にもならない賞になったと憤ったのを覚えている。

「共喰い」は正直今あまり読みたくない感じの内容だが、ヘラヘラした受賞者の顔ばかり切り取られ報じられているのを見てなんだか生ぬるくなったなあ、と感じていた文学賞に久しぶりに関心が湧いた。
同時に受賞している円城塔は前に「Self-Reference ENGINE」をタイトルに惹かれて購入したものの全く付いていけず、でもなんだか分からないものに感じる面白さから、こういうものを読んでいる人は他に何を読んでいるのかと検索していて飛浩隆伊藤計劃に辿り着いたという非常に幸運な思い出がある。
円城塔が未完に終わっている伊藤計劃の「屍者の帝国」を書き継いでくれるという幸福な知らせもあるので、「Self-Reference ENGINE」を再読しながら待ちたい。

 

TOKYO RISING

TOKYO RISING

東京で生まれて、東京で育ち東京で働いていると、自分の世界がすごく狭く感じることがある。人ばっかり多くて大きな建物が次々に立つ、田舎者が集まってきて上京物語を語る、そんな一切も日常に溢れるありふれた光景として捉えてしまう。
ニューヨーク、マカオ、香港に行ったときはなんてエネルギーのある場所だろう、と感じたけれどそれも余所者目線だからかもしれない。東京はもっと素晴らしいところだったかもしれない。東京ってこんな風に見えたのか、と新鮮に映る。

頭がよく見えるということ

僕は自分が思っていたほどは頭がよくなかった - しのごの録

元ネタは reddit というソーシャルニュースサイト。自分は他人よりも頭がよいとずっと思っていたが理系エリートが行くMITへ行けない事がわかり悲観している学生に、MIT卒業生・現面接官を名乗るひとが「頭がよい」とはどういうことなのか、経験談含め今後のアドバイスを送ったもの。

妬ましいほど頭がよく見えるひとがいる。かつて自分は人よりずっと良く出来た筈なのに、年を取るにつれそれほどでもなくなる。程度の違いこそあれ、身に覚えのあるひとも多いだろう厭な現実について前向きに解説してくれている。特別な存在だと思っていた自分が、なんでもない有象無象と同じ(あるいはそれ以下)だと気付いたときの失望から目を逸らしてはいけない。それはなにも、突然に抵抗できない絶対的な力が働いて才能を貶められたわけではない。思い込みや空想で飾り立てた自分でなく、有りのままの自分に気付いただけだ。自分が何か失ったわけじゃない。

『年をうんととってボケ始めるまでは、「頭がよく」なるチャンスはあるのです。』
文中では道具箱と言い例えているが、その道具箱を大きく、研ぎ澄ますための習慣、ハングリー精神、瞬発力は失われたら取り戻すのは難しい。

自分が及ばないと思っている人は雲の上の存在ではないんだよ。